ワルキューレの微笑 ~ある地球環境学者の鎌倉日記~ 作:古屋 力

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2022.8.2 掲載

22. 心と口と行いと生命をもて

鎌倉生活を始めて以降、山岡には、週末の日課ができた。鎌倉の山奥の自宅近くにある禅寺報国寺での参禅である。1334年(建武元年)天岸慧広の開山に創建された臨済宗建長寺派のこの名刹は、毎週日曜日の早朝から日曜坐禅会をしている。それに参加している。

毎週日曜午前7時半より、迦葉堂にて、静かに座っている。幻想的な竹林を静かに歩く坐禅「経行(きんひん)」も含まれる。美しい約2千本の孟宗竹の庭の中を、ただただ静かに黙行する。山岡は、静寂の竹寺から始まるこの休日の過ごしかたが、気に入っている。

坐禅の後は読経が行われ、お粥をいただくのが習慣。梅干し1つだけの質素なお粥の温かさが体に沁み込む。住職のお話を聞けることもありがたい。いつもそうなのだが、参禅する前の、参禅後とでは、目に映える自然の木々の美しさが、まったく違う。自分自身が浄化していることに気づく。

ちなみに、山岡の週日の日課は、いたって、シンプルである。毎朝、5時半起床。軽く朝食後、ラジオ体操をしてから、近所を30分程度散策する。報国寺で学んだ歩く坐禅「経行」を、毎朝、実践している。散策ルートは、定番が、瑞泉寺までの30分コースだが、浄妙寺まで足を延ばす1時間コースもある。

そんなわけで、山岡の鎌倉生活は、静かな坐禅三昧で1日が始まっている。秋には、裏山の紅葉谷まで「経行」することもある。紅葉谷は、天園に至る登山道の中腹にある紅葉の名所で、秋は、結構にぎわう。しかし、地元ならではの、まだ、東京から登山客が来る前の、早朝の誰1人いない静謐な時間が、なんとも、至福である。紅葉と銀杏の落葉の織り成すコントラスト、驚くほど美しい。

心と口と行いと生命をもて01

この「経行」の最中、かならずしも、頭の中は無ではない。実は、時に、好きなバッハのコラール「主よ、人の望みの喜びよ(Jesus bleibet meine Freude)」が、リフレインしていることがある。「心と口と行いと生命もて(Herz und Mund und Tat und Leben)」BWV147の第6曲目のコラールである。ト長調の穏やかであたたかな旋律が、心を優しく包んでくれる。

山岡が、バッハが後半生を過ごしたライプツィヒの聖トーマス教会を初めて訪問したのは、ベルリンの壁が崩壊して、旧東ドイツにも自由に旅ができるようになってからである。テューリンゲン州のアイゼナハという都市で生まれたバッハは、その後、約47年に渡る創作人生のおよそ半分をライプツィヒのトーマス教会音楽監督として過ごし、その生涯をライプツィヒで終えた。

聖トーマス教会では、たまたま、バッハのコラール「主よ、人の望みの喜びよ(Jesus bleibet meine Freude)」が、演奏されていた。まさに、想定外の嬉しいセレンディピティであった。聖トーマス教会前には大きなバッハの像があり、道を挟んで向かいにはバッハ博物館があった。バッハ大好きな山岡は、終日、時間を忘れてバッハ三昧を味わった。

実は、バッハは、人間的で面白い人物だったらしい。バッハを研究する学者の中には、「勤勉が洋服を着て歩いているような人物」と表す人もいるが、一途な愛妻家でもあり、子供は20人もいたといわれている。作曲家として大忙しであったバッハは、その合間に子供や妻のために練習曲を作曲している。家族への愛情が深かった人間的な人物だったらしい。

あの肖像画の印象からは、まったく想像もできないことだが、殴り合いの喧嘩をすることもあったそうだ。音楽に対しての情熱がありすぎたため、演奏家や宮廷関係者との衝突が絶えず、合唱団の指導で演奏者の批判をし、後日殴り合いの喧嘩まで発展したこともあったらしい。

心と口と行いと生命をもて02

実は無類のコーヒー好きでもあった。バッハの遺産リストの中には、5つのコーヒーポットやカップが入っていた。また、バッハは、コーヒー依存症が社会問題となっていたライプツィヒを題材として「コーヒー・カンタータ」という曲を作ったこともある。

さらに、驚くことに、真面目で勤勉なバッハが、実は4週間もの間、刑務所に収容されていたことがあったらしい。音楽の父と呼ばれる偉大な作曲家がなぜ刑務所に入れられたのか、その話をドイツ人の友人から聞いた時には、ピントこなかったが、当時ワイマールの宮廷楽団で演奏していた頃、宮廷楽長が亡くなり、後任を決めることになった。ところが、バッハよりも能力の低い人が楽長の後継者に選ばれた。それに、バッハは腹を立て、怒りに任せて辞表を提出し、自分が後継者として適任であると公爵に主張し続けた。その結果、逮捕されてしまったとのこと。

ちなみに、バッハには、深く愛した女性が少なくとも3人はいたと、言われている。最初の女性は、母マリア・エリーザベト・レンマーヒルト。バッハの実母である。2人目は、妻。ひとつ上の姉さん女房。1707年10月、当時22歳の若き教会オルガン奏者であったバッハは、またいとこのマリア・バルバラ・バッハとドルンハイム村の教会でささやかな結婚式を挙げている。

しかし、1720年7月、バッハ35歳のとき悲劇が起こる。仕えていたケーテン公レオポルトの随伴旅行から帰宅すると、そこには泣きじゃくる子どもたちがいた。母バルバラが突然の病で急死して、すでに埋葬まで終わっているという驚くべき悲報に触れる。

その後、バッハはケーテン宮廷にて、美声の持主であるソプラノ歌手のアンナ・マグダレーナ・ヴィルケに惹かれ始める。マグダレーナはバッハの16も年下の20歳のお嬢さん。いくらバッハを尊敬していたとしても、この「年の差婚」は、当時でも稀有。それでも翌年、バッハとマグダレーナはめでたく結婚。夫婦仲も良く、バッハはこの後妻をたいへん可愛がった。ふたりは13人の子どもをもうけている。ことほど左様に、バッハは、実に、人間的で、愛情に富み、しかも、精力的であったことが、うかがえる。そんなバッハが、65年の生涯を終えたのが、1750年。いまから、270年以上も、大昔のことである。

(次章に続く)

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