人類の明るい未来図 ~「脱炭素」と「脱国家」による「永遠平和」のためのデッサン~ (古屋 力)

2022.5.20 掲載

2.「永遠平和」は、はたして真夏日の「逃げ水」のごとく永遠未達な幻想なのか

子供の頃の田舎の懐かしい夏の思い出に「逃げ水」があります。カンカン照りの真夏日の畑の中の1ッ本道のはるか向こうにゆらゆら陽炎のごとく見える、あの「逃げ水」です。追いつこうと走って近づくと、どんどんさらに遠くに遠ざかっていってしまう。こんな不思議な体験を思い出します。「永遠平和」のことを考える時、いつも、この「逃げ水」のことを思い出します。はたして真夏日の「逃げ水」のごとく、「永遠平和」は、いつまで追いかけて行っても追いつけない幻想なのでしょうか。

いまから2世紀以上も大昔に、かの偉大な哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant)は、最晩年に、戦争が絶えないヨーロッパ情勢を憂い、『永遠平和のために(Zum ewigen Frieden)』(1795)を世に出し、永遠平和を確立するための条件を提示しました※5

そもそも元来「人間の本性は邪悪である」と考えていたカントは、「自然状態は、もともと戦争状態なのだ」と喝破し、決して楽観論者でも理想論者でもありませんでしたが、「まずもって純粋実践理性の国とその正義を求めて努力せよ。そうすれば汝の目的、つまり永遠平和という恵みはおのずからかなえられるであろう」と説き、永遠平和に絶望しておりませんでした。そんな彼は、こう説いております。戦争状態とは、武力によって正義を主張するという悲しむべき非常手段にすぎない。そんな戦争状態は、なんとしても回避しなくてはならない。しかし、平和状態は、天から与えられるものではない。なので、人類が自ら、平和状態を作られなければならない。そして、その平和状態は、人類が自ら築き上げた制度の下で保障されなければならない。現実世界では、なかなか永遠平和状態を達成することはできないが、永遠平和状態という概念そのものは、目指すべき目標として役に立つ。したがって、到達できないからといって最初からやらないのは、完全に道徳的になれないからといって道徳的な生き方を心がけないのと同じだ。大事なのはそれを目指すことである、と。まったく、その通りです。カントはじめ多くの先人たちは、未来の人類が、感情のままに行動して悪に流されないように希望を込めて、共通のルールを作る必要性を考えたのです。

カントは、永遠平和のヒントとして「自然の摂理は永遠平和を保証する」と論じました。この「自然の摂理」という聴きなれないわかりにくい言葉ですが、その趣旨は、簡単に意訳すると、こうです。

人類は、有史来、戦争や争いで、さんざん痛い目にあって苦労してきた。そして、他者と衝突して自分の権利や利益が侵害されることにこりごりだった。そのため、自分の権利や利益が侵害されることを未然に避けるためルールを作り、それを互いに守る仕組みを考えた。それは、お互いにもう痛い目に合わないよう、普遍的なルールとしてあらゆる人の利益や都合を保証するために活用される「恒久的平和」の仕組みであった。しかし、人間って誠にもって身勝手な存在で、中には自分だけはそのルールに縛られずに楽をしたいとセコイことを考える不逞な輩も登場した。その結果、ルール破りが出てきて、結局争いが再び起きてしまった。しかし、その後、様々な試行錯誤を経て、やはり、自分さえよければ良いという自分勝手なふるまいは、結果的に碌なことにならないことを知った。よくよく冷静になって考えると、最終的には、自分の自由や権利が一部制限されたとしても、全員が同じルールに従う方が、結果的に自分の利益が最大化するという真実に気づいた。このことを、「自然の摂理」という。要すれば、カントは、こうした「自然の摂理」を念頭に、法や制度、経済の仕組みを設計していくことで、「百害あって一利なし」の忌まわしい戦争は回避でき、永遠平和を保証することが可能となると考えたのです。

本来、人間はambivalentなやっかいな生き物で、相反する感情や考え方を同時に心に抱いております。人の心には2面性があります。もともと、人間は、穏やかで平和な心を持っております。そこでは、闘争状態は存在しない。人間には、元来、憐憫の情や利他心が備わっているからです。しかし、方や、邪悪な心や利己心もあります。「自分さえよければいい。」という気持ちは、残念ながら、大同小異、誰しもがもっております。それによって闘争状態が生まれるのです。人類が発展するにつれ、人は私有財産をもつようになる。人びとは習俗によって結びつけられ、共同体が生まれる。そのとき人びとは私有財産を守るためルールを設定する。しかし結局、私有財産によって競争と利害対立が生まれ、平等は消滅し、不平等が現れてくる。そして、やがて、本来攻撃し闘争する性質を持っている人類は、お互いに戦争を始め、「万人の万人に対する闘争(bellum omnium contra omnes)※6」が起こってしまう。とりわけ、産業革命以降は化石燃料によるエネルギー活用と並行して産業技術や機械の水準も進化発展し、経済成長が加速し、それに伴い、貧富の差や人々の利害対立、さらには国家間の緊張感も格段と高まる。方や、戦争の手段としての火器の破壊力と水準も格段の発展をした結果、軍需産業が生まれ、戦争自体が、組織化し、大型化し、同時に、無辜の市民の多くの犠牲が常態化してきた。しかし、その後、2回の世界大戦を経て、人類は、ようやく気づく。「戦争は結果的に世界中の誰1人とて幸福にしない。戦争は、代償があまりに大きく、最良の選択肢ではない。」ことを。だが、悲しいかな、核兵器の登場によって戦争が人間の知的能力をはるかに凌駕する事態を迎えてしまい、戦争が歯止めがきかない自走システムとなってしまった。そして、いまだに、軍需産業は拡大しつつあり、軍産複合体(Military-industrial complex, MIC)※7は、健全な人体を蝕む癌細胞のごとく増殖を続けており、いまや、人類は「第三次世界大戦」の門前に立たされているのです※8

それでは、そもそも、世界中の誰1人とて幸福にしないこの不毛な戦争を起こさないようにするためには、どうしたらいいのでしょうか。その解は、私たちは、お互いの自由を一部放棄し、戦争の原因である腕ずくで何かを獲得できる権利に制限をかけることにあります。しかも、誰1人抜け駆けできない仕組みが大前提となります。そのためには、お互いの約束であり公正なルールである「社会契約(contrat social)」が必要となります。この「社会契約」によって、人びとは、各人の能力差を認めつつ、市民的自由と所有権を保障し、相互に平等となることができるのです。換言すれば、「社会契約」によって人びとは初めて自由と平等を両立させることができ、ようやく、永遠平和を確保できるのです。

思えば、人類以外の生物は、ライオンでもイヌワシでも、生きるための食料捕獲目的以外では、お互いにおぞましい虐殺し、不毛な戦争なんぞをしておりません。地球上に生きる多種多様な生物種の中で戦争するのは例外的に人間だけです。人類以外の生物の構成する自然世界が、「まともな世界」であり、まさに「自然の摂理」の世界であります。実は、そこにヒントがあります。人類の構成する世界は、そもそも「まともじゃない世界」なのです。その人類固有のおぞましき「業」とも呼ぶべき人類特有の「同じ種に対する攻撃性」や「自滅的リスク」を制御する工夫として、「自然の摂理」に基づく「安全装置」として人類が永年かけて英知を結集し生み出した苦肉の策が「社会契約」なのです。

しかし、それでは、ウクライナ戦争が起きているいま、「恒久的平和構築」を十分担保し得る「社会契約」が機能しているのでしょうか? その安全維持装置は役割を果たしているのでしょうか?その答えは、残念ながら、NOです。国連も国際刑事裁判所(International Criminal Court; ICC)も有効に機能しておりません。いまや「社会契約」が「無効化」しているのです。でも、だからと言って、いま我々は「社会契約なんて所詮理想論で、どだい無理なんだ」と開き直って絶望するしかないのでしょうか。

※5 カントは、『永遠平和のために』で、①停戦条約のような平和条約を認めない、②国家を財産のように扱わない、③常備軍の廃止、④軍事国債の禁止、⑤内政干渉の禁止、⑥卑劣な敵対行為の禁止、という永遠の平和をもたらすための6つの前提条件を示している。ちなみに、カントは、平和構築の鍵である「道徳」は良心の問題ではなく、「無条件でしたがうべき命令を示した諸法則」であるとし「普遍的なルールとしてあらゆる人の利益や都合を保証するために活用されるもの」だと明言している。この前提によって、たとえ自分の欲望を最優先する悪魔が国家の成員であったとしても、ルールに従わざるを得なくなるメカニズムを構築できるのである。

※6 「万人の万人に対する闘争(bellum omnium contra omnes)」は、、トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)が1642年の『市民論』(De Cive)及び1651年の『リヴァイアサン』(Leviathan)での思考実験において、彼が考える自然状態における人間の有様を表すために持ち出した表現。

※7 軍産複合体(Military-industrial complex, MIC)とは、軍需産業を中心とした私企業と軍隊、および政府機関が形成する政治的・経済的・軍事的な勢力の連合体を指す概念。1961年1月、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が退任演説において、軍産複合体の存在を指摘し、それが国家・社会に過剰な影響力を行使する可能性、議会・政府の政治的・経済的・軍事的な決定に影響を与える可能性を告発したことにより、一般的に認識されるようになった。

※8 島田雅彦氏は、「軍産複合体や国際金融が滅亡しない限り、アメリカは、漁夫の利を漁って姑息に生き延びるのだ。」と米国批判を展開し、「死の商人たちを戦争で儲けられない状態に追いやる方が、確実に国際情勢の現状を変更できる」と軍産複合体を批判する一方で、「(ウクライナ降伏は)「侵略したもん勝ち」を国際的に認めるに等しい。帝国復興を目論む権力者たちの野望は全開となり一斉に「プーチンに続け」となる。世界は、19世紀以前の帝国主義時代に逆戻りし、多くの国際紛争や内戦、二国間戦争、世界大戦が反復されることになる」と、ウクライナ戦争の帰趨とその世界大戦への危険性について分析し懸念している。島田雅彦(2022)「小柄なサイコパス男の大きな影」(雑誌『世界』2022年5月臨時増刊号)pp15~17

【3.「気候危機」と「国際紛争」における「囚人のジレンマ」の悲劇性】 へ続く →